説教
年間第28主日(C年 2025/10/12)
ルカ17:11−19
私の父は癌にかかり、19年前に亡くなりました。父が生きていた頃、母は働きながら病院で父の介護をしていました。ある日、母が病院にいない間に、当時の主任司祭がお見舞いに来て五万円を置いて行かれました。母はその恩をどうやって返せばいいかと悩んでいました。その後、母はある男性が病気だと聞きました。その人は信者でもなく、よく知らない人でしたが、母は「私もいただいた恩を今度は返そう」と思い、知り合いを通してその家に五万円を渡したそうです。
一方、ある信者から聞いた話があります。Aさんという女性の娘さんが中学生の時、癌にかかりました。多くの人が祈り、不思議なことに娘さんは元気になり、その後、教会に熱心に通うようになりました。ところがある日、Aさんは教会のグループの仲間であるBさんに対して誤解をし、彼女を嫌うようになりました。そのしばらく後、Bさんの息子さんが脳の癌になり、手術を受けることになりました。Bさんは皆に祈りをお願いしましたが、Aさんはまだ心のわだかまり(心の中に引っかかり)があって、祈りの集まりに出なかったのです。
この二つの話から、私たちはどんな信者になるべきでしょうか。私たちは「信者」と言いながら、主に感謝するべきことを忘れていないでしょうか。もし本当に神の恵みに感謝しているなら、条件をつけずに、困っている人を助け、祈ることができるはずです。
第一朗読はナアマンの重い皮膚病のいやしを語ります。ナアマンはシリアの将軍でしたが、皮膚病を患っていました。彼は預言者エリシャの噂を聞き、病気を治してもらおうと、家来とともにエリシャを訪ねました。エリシャはナアマンに「ヨルダン川に七度身を浸しなさい」と言いました。ナアマンは自分の立場や体面を捨てて、神の御言葉を信じ、川に七度(七回)身を浸しました。すると皮膚はきれいになり、病気は治りました。そして彼は感謝して、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことを分かりました。」と信仰を告白しました。
今日の福音でも、重い皮膚病を患っている十人の人がイエスに出会います。彼らは遠くから大声で叫びました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」イエスは言われました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」この御言葉は、すでにいやしが起きたことを意味していました。しかし、十人のうち一人だけが、いやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足元にひれ伏して感謝しました。その人はユダヤ人ではなく、普通ユダヤ人から嫌われていたサマリア人でした。イエスは言われました。「清くされたのは十人ではなかったか? ほかの九人はどこにいるのか? この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか?」そしてイエスはその人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
救いは出身や身分で決まるものではありません。主を信じ、そのみ旨に従うことによって与えられます。そして、その信仰は、神の愛と恵みに感謝することから始まります。ミサはギリシア語で「エウカリスティア(感謝の意味)」とも呼ばれます。ミサとは、神の愛と救い、恵みに感謝し、賛美をささげる祭儀です。それは義務として来る場所ではなく、感謝の心で主に会う時間です。この一週間、主の愛と救い、恵みを思い出し、感謝と隣人愛を生きることができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父