カトリック上福岡教会

説教

年間第27主日(C年 2025/10/5)

ルカ17:5−10

今日の福音でイエスはこう言われました。「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」(ルカ17:9−10)

現代の社会は人間の尊厳や平等、労働の対価を重んじています。そのためこの言葉はなじみにくく、私たちは働いたら当然、報酬や認めを受けると考えがちです。さらにイエスはすべての人を愛された方なのに、今日のたとえ話では主人が僕に冷たくしているように見えます。では、このたとえをどう理解すれば良いのでしょうか。

イエスは、主人がしもべを不当に扱っても良いと言いたいのではなく、神の前で弟子がもつべき基本の姿勢を教えています。神と私たちの関係は取り引きではなく、恵みと愛の関係です。

ルカ15章の放蕩息子のたとえで、弟は父に遺産を求め、自分には受け取る資格があると考えました。しかし、財産を使い果たし、苦しみの中で初めて父の家で雇われるだけでもありがたいことに気づきます。けれど、父は彼を僕としてではなく、息子として迎え入れます。神も同じです。御父は私たちのために御子を血を流してまで与えてくださいました。それだけで十分な愛を受けているのに、「これだけ祈ったのだから、奉仕したのだから、神はこれだけ恵みをくださるはずだ」という思いは神と取り引きをしようとする誤った態度です。これは放蕩息子の兄が父に報いを求めた姿と同じです。こうした思いは真の信仰がなく、神の支配を信じきれていないことを表しています。

実際、人間は宇宙の中でとても小さな存在です。1977年に打ち上げられた探査機ボイジャー1号が地球を撮影した写真では、地球はほこりのような青い点でした。その小さな世界で人は争い、戦い、生きてきました。どんなに長生きしても永遠には生きられず、どんなに科学が発展しても宇宙の神秘をすべて知ることはできないで、どんなに人が慈悲深くても神の憐れみには及びません。人間は罪のゆえに弱く、花のように消えてしまうはかない存在です。

それでも神は私たちを愛してくださいます。詩編はこう歌います。「人間とは何者なのでしょう、あなたがこれほど心に留めてくださるとは。人の子とは何者なのでしょう、あなたがこれほど顧みてくださるとは。」(詩編8:5)

「主よ、わたしたちの主よ、あなたのみ名は地のすべてにおいていかに尊いことでしょう。」(詩編8:10)

神はこういう小さい私たちを受け入れ、守り、ともに歩んでくださいます。だから、感謝しつつ、今日の福音のしもべのように、求めず、ただ謙遜にみ言葉を聞き、やるべきこと(なすべきこと)をする者でありたいのです。

イエスがこのたとえで教えたのは、弟子たちが主のみ心に従い、自分の思いを空にする姿勢です。自分の思いを手放すほど、主のみ心が力強く働きます。信仰が深まるほど、自分の無力さを認め、全能で永遠の神に全くゆだねるようになります。

イエスは「からし種ほどの信仰」があれば、神は不可能に見えることさえ成し遂げると教えます。これは超能力を得るという意味ではなく、自分が変わる奇跡を指しています。自己中心に生きていた人が神を信じ、そのみ心を中心に生きる新しい人生に変わるのです。イエスが本当に起こしたい奇跡は、病気や悪霊をいやすこと以上に、人が悔い改めて、救いの新しい人生を生きることです。

今日、私たちは自分がどれほど小さく限界のある存在かを認めつつ、そういう私たちを愛し受け入れてくださる神に感謝しましょう。そして、真の信仰とは、神が私たちに仕えることではなく、私たちが神のみ言葉を聞き、そのみ心に仕えることであると覚えましょう。自分の力や思いではなく、全能で永遠で慈しみ深い神に信頼し、み言葉に従う信仰へと成長していきましょう。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

ゆりのイラスト

「説教」一覧へ

トップヘ戻る