カトリック上福岡教会

説教

年間第33主日(C年 2025/11/16)

ルカ21:5−19

私は昔、韓国で夜に、ある川沿いで自転車に乗って運動していました。すると、街灯から「ジーッ、バチッ」という音が聞こえてきました。街灯が故障しているのではありません。では、何の音でしょうか? それは、街灯に付けられた電気殺虫器で虫、害虫が焼ける音でした。蚊や虫が真っ暗な夜に光を見て、そこに向かっていき、電線に触れて焼かれてしまう(死んでしまう)のでした。近くで見ると、死んだ蚊や虫がうずたかく(山のように)積もっていました。

その光景を見ながら、私たち人間の姿が思い浮かびました。朽ちて消える財産や名誉、権力に執着し、霊的に死んでいく人間の姿だと思いました。もし私たちが、見かけの華やかさ、一時的な楽しみ、財産、権力に心を奪われたり、甘い誘惑に負けて罪を犯したり欲張ったりするなら、私たちも虫のように滅びてしまうでしょう。

今日の福音で、人々は立派で美しく華やかに飾られた神殿を見て感嘆しますが、イエスはその神殿も滅びると預言されました。実際に紀元後70年にローマ軍がユダヤの独立運動、反乱を鎮圧した時、エルサレム神殿は破壊されました。今はその場所にイスラムのモスク(寺院)があり、神殿の西側の壁だけが残っています。神殿の西側の壁の一部だけが残っていますが、今日ユダヤの人々はその壁を「嘆きの壁」と呼び、そこで祈っています。

では、全能の神様なのに、なぜ神殿が崩れるのをそのままにしておかれたのでしょうか? それは、人々が見かけでは(見た目だけは)礼拝していても、心では神を第一としておらず(一番大切にせずに)、お金や富、名誉、権力、楽しみを中心に生きていたからです。

私たちの体は神が宿っておられる神殿(聖殿)です。ですから、私たちの存在は皆尊く、その大切なものにふさわしく生きるべきです。しかし、その神殿の中心に神ではなく、お金や富や権力、快楽を置いてしまうなら、神が入る場所がなくなってしまいます。私たちが救いの源である神ではなく、お金や財物、権力、一時的な楽しさ等が自分を生かしてくれると信じて、世のものに頼り切って「神なんて必要じゃない」と思うなら、神は私たちの自由意志と選択を尊重されるので、守りたいと思っても守ることができなくなります。そのような心で神殿の建物に入って神様を呼び求めても、それは真に神様を信じて求めていることではなかったのです。ですから神殿は滅びました。まるで、夜に光を追って電気殺虫器に向かい、死んだしまう虫のように。

続いて、イエスは自分の名を名乗る者、自分がキリストだと偽る人が大勢現れること、また、戦争や反乱、地震、飢饉、疫病、空の恐ろしい出来事や大きな徴、迫害などが起こるだろうと話されました。これはエルサレムと神殿の滅亡だけでなく、世の終わりの日(終末)の裁きの前に起こる出来事に関するお言葉でもあります。

しかし、イエスは私たちを恐れさせるためではなく、救いと命を与えるために語られました。太陽が昇れば夜の闇は消え、明るい朝が来ます。同じように、どんな困難や不正に満ちた世の中でも、永遠の光の主は太陽のように必ず再び来て、闇と死と不義、不正を追い払い、命と栄光の光で照らしてくださいます。

もし虫が殺虫器に向かわず、太陽が昇るのを待てば生き残れるように、私たちも誘惑に向かわず、主に望みを置き、忍耐して主のみ旨を歩むなら、主は「あなたがたの髪の毛一本も失われない」(ルカ21:18)と約束されたように、霊のうちで守ってくださいます。

だからこそ、私たちは苦しみや試練の中でも、太陽が昇るように、必ず来てくださる主の再臨を望みながら、世間が求めることとは反対の生き方を選んだらいいと思います。世が富を求めれば、私たちは貧しさを大切にし、世が権力を誇れば、私たちは謙遜を選び、世が自分の利益ばかり求めれば、私たちは分かち合うことを優先し、世が自分だけを考えるなら、私たちは神と隣人を思い、世が一時的な楽しみを追えば、私たちは永遠の命を望みます。家族に反対されても譲れない、これが私たちの信仰です。

私たち皆が、世の誘惑や欲望を警戒し、どんな闇の中でも、試練の中でも、髪の毛一本失わないよう守ってくださる主の来臨、再臨を望みながら、主に従って救いと命の道を歩んでいくことができますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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