説教
年間第19主日(C年 2025/8/10)
ルカ12:32−48
今日の福音で、主イエスは「婚宴(結婚式)から帰ってくる主人を待つ僕たち」のたとえを通して、私たちがどのように生きるべきかを教えてくださいます。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉のように、主の御心に従い、いつも準備し、目覚めていなければなりません。
当時のイスラエルでは、婚宴(結婚式)が何日間も続き、主人がいつ帰ってくるか分かりませんでした。夜中かもしれませんし、明け方かもしれません。それでも僕たちは、眠らずに主人を迎える準備をしていなければなりませんでした。もし、主人が帰ってきたときに、僕たちが寝ていたり、遅れて扉を開けたりすれば、せっかくの宴(宴会)の気分が台無しになるでしょう。反対に、目を覚して待っていた僕がすぐに扉を開けたなら、主人はとても喜び、なんと自分から彼らに給仕する、つまり世話をしてくれるというのです。これは、主を心から迎える人に、主ご自身が天国の宴(宴会)の喜びを与えてくださる、という希望の約束です。
ここで大切なのは、「目を覚ましている」とは何かということです。ギリシャ語の「グレゴリュオ(γρηγορεω)」は、ただ寝ていないことではなく、意志の力で眠気に打ち勝ち、注意深く目を覚ましていることを意味します。つまり、感覚や理性、意志を使って生きる、人間らしい姿勢なのです。
では、どうすれば目を覚ましていられるのでしょうか? それは「祈り」です。イエスはゲッセマネで、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。霊は燃えていても、肉は弱い。」と弟子たちに言われました。目を覚ましている生活とは、祈りを通して御言葉を黙想し、それを行動に移す生き方です。
でも、現実にはそれは簡単ではありません。毎日の繰り返しのような日々、疲れ、欲望や怠け心などが、私たちを霊的に眠らせてしまいます。そんなとき、主が扉を叩いても、気づけないかもしれません。でも主は、黙示録の中でこう言われました。「見よ、わたしは戸の外に立って戸を叩いている」。主は日常の中の小さな出来事や出会いを通して、私たちの心に訪れてくださっているのです。
韓国の有名なシスター、李海仁(イ・ヘイン)が癌で闘病中だったとき、ある記者が彼女にインタビューをしたことがあります。その記者がこう尋ねました。「癌の闘病を通して、ご自分の人生はどう変わりましたか?」すると、シスターはこのように答えました。「はい、命に対する感謝がより深くなったこと、周りの人々への愛がもっと切実になったこと、物事へのまなざしがより敏感になったこと、そして、いつも習慣的に行っていた祈りが、もっと新しく、心からのものになったこと……そう言いたいですね。」シスターは、癌という病気を通して、霊的にも緊張感を持つようになり、だからこそ感謝も愛も祈りも、いっそう深まったのです。苦しいときこそ、わたしたちの信仰が深まり、目を覚ましている状態を保つことができるのです。
今週も、主に仕える日を待ち望みながら、心を引き締めて、目を覚ましている信仰生活を送りましょう。毎日を祈りのうちに主にゆだね、愛と奉仕の心で生きるとき、主が下さる平和と喜び、恵みをきっと感じることができるでしょう。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父