カトリック上福岡教会

説教

聖母マリアの被昇天(2025/8/15)

ルカ1:39−56

今日は聖母マリアの被昇天の祭日を記念して、ミサをささげています。聖母の被昇天は聖書にははっきりと書かれていませんが、初代教会から伝わる信仰と、聖なる伝統「聖伝」に基づく教えです。

そして1950年に教皇ピオ12世が、マリアさまの被昇天を「信じるべき教義(教理)」として宣言されました。その宣言によれば、マリアさまは原罪を免れ、終生童貞(おとめ)であり、地上の生涯を終えた後、霊魂と肉体がともに天の栄光にあげられたとされています。これは単に肉体が空に上ったという意味ではなく、マリアさまの存在全体が神の命と一体となり、永遠の喜びに入られたことを意味します。

イエスの昇天とマリアの被昇天は少し異なります。イエスは神として自ら天に昇られましたが、マリアは人間として、神の恵みによって天にあげられました。つまり、救いは人間の努力や功績によるのではなく、神の恵みによるものだということです。その恵みを受けるために必要なのが、信仰です。

その信仰は、マリアのように、神の御言葉を信じ、それに従う信仰です。今日の福音でエリサベトは、「主がおっしゃったことは実現すると信じたあなたは、なんと幸いでしょう。」と語ります。マリアの信仰は、ただ神の存在を信じるだけでなく、その御言葉がご自分に実現すると信じる強い信頼でした。

しかし、その信仰は苦しみを伴いました。聖霊によって身ごもったことにより、人々の誤解を受け、ヨセフも離れようとしました。そして、御子イエスが十字架で亡くなる様子を母親として見守らなければなりませんでした。預言者シメオンは、マリアの苦しみをこう表現しました。「あなた自身の心も剣で貫かれるでしょう。」神の御言葉を信じたからこそ、マリアはそのすべての苦しみを受け入れなければなりませんでした。

それでもマリアは、神の業を信じ、喜びと希望をもって生きました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」とマニフィカトで歌い、「この卑しさに目を留めてくださった」と感謝しました。ここで言う「卑しさ」とは、単に社会的地位や経済的困難ではなく、神の御言葉にご自分をゆだねた者が経験する謙遜や苦しみ、犠牲を意味しています。神はそのような卑しい人々を顧みて、引き上げてくださいます。

マリアはさらにこう歌いました。「主は思い上がる者をその心の計画と共に追い散らし、権力ある者を王座から引き降ろし、低い者を高く上げられました。飢えている人々を良い物で満たし、富んでいる者を空手で追い返されました。」神は世間の価値観とは反対のやり方で働かれます。謙遜な人を高め、貧しい人を満たしてくださるのです。

今日を生きる私たちも、マリアさまと同じように信仰を持ち続けることが求められています。なぜなら、悪魔は私たちを誘惑し、神の御言葉よりも、お金や地位、名誉などを優先させようとするからです。しかし、マリアさまはそのような誘惑に負けることなく、最後まで神の御言葉を信じて歩みました。そして、天にあげられ、今も天の母として、私たちのために、神の国に入れるように、祈り、助けてくださっています。

私たちも、「お言葉どおり、この身に成りますように」という信仰を持って生きていきましょう。マリアさまのように、希望と謙遜と信頼のうちに、神のみ旨を歩んでいく時、私たちもまた、いつか天の国へと引き上げられることができるのでしょう。

また本日は平和旬間の最終日です。聖ヨハネ・パウロ二世教皇さまは1981年に広島を訪れ、こうおっしゃいました。「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである。」これは戦争を振り返り、平和を思う時、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません、という意味です。傾聴(耳を傾けて、よく聞くこと)、非暴力の言葉、弱い人への配慮、許しなどは、そのような具体的な行動の例と言えるでしょう。平和は「心の中の願い」ではなく、「小さな行動の積み重ね」であるという言葉があります。このように、主の御心に沿って平和のための小さな行動を少しずつ実践していく時、私たちの周りには平和の香りがほのかに広がっていくことでしょう。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

ゆりのイラスト

「説教」一覧へ

トップヘ戻る