説教
主の洗礼(2026/1/11)
マタイ3:13−17
今日は「主の洗礼」を記念する祝日です。もともと洗礼とは、罪人が悔い改めるしるしとして受けるものです。それでは、神のみ旨に背くことなく、罪を犯されなかったイエスは、なぜ洗礼を受けられたのでしょうか。
その理由は、大きく二つあります。一つ目は、神のみ旨と救いの業に与かるためです。ヨハネの洗礼は、神の民であるイスラエルが、神のもとへ立ち帰るためのものでした。イエスは、この洗礼こそが神のみ旨であると確信されました。だからこそ、ご自身も洗礼を受け、神の救いの計画とみ旨に加わられたのです。
二つ目に、私たち罪人と同じ立場を引き受けようとされたからです。イエスは罪を犯されたことのない方ですが、あえて罪人の列に加わり、悔い改めの洗礼を受けられました。このように、イエスは、宣教の生活の間じゅう、私たちと同じ立場に立ち続けられました。罪人、徴税人、居場所を失っている人、病を抱える人々の友達となり、彼らをあるがままに受け入れ、顧みてくださいました。そして、罪人である私たちと同じ立場に立ち、共に歩まれたその生き方は、ついに十字架につけられることで頂点に達します。友達である罪人のために命をささげるほど、彼らを愛し、救われたのです。
このように、イエスが、私たちのような不完全な人間と同じ立場に立ち、友達として共にいてくださったことは、私たちが「自分自身として生きる」ためにも、大切な意味を持っています。だからこそ、私たちは恥や劣等感から解き放たれ、自分の価値と美しさを改めて見い出し、充実した人生を生きる力を与えられるのです。
昔、ラプンツェルという少女がいました。彼女は生まれてすぐ、年老いた魔女に連れ去られ、扉のない高い搭に閉じ込められてしまいました。魔女はラプンツェルが幼い頃から、毎日のようにこう言い続けました。「お前は私のように醜いのだよ」。その言葉を聞き続けたラプンツェルは、実際には美しい顔と輝く青い目を持ち、金色の髪もとても美しかったのに、自分は生まれつき醜いのだと信じ込んでしまいました。そして、自分の醜い姿を人に見せたら、皆が自分を離れていくのではないかと恐れ、搭の外へ出ようとしませんでした。搭の中には鏡がなかったので、ラプンツェルは一度も自分の美しい姿を見ることができなかったのです。ただ、彼女は金色の髪を切らず、長く伸ばしていました。
ある日、ラプンツェルが風に当たろうと窓を開けた時、ちょうど搭の下を通りかかった王子が、彼女を一目で愛するようになりました。後に王子は、魔女の留守を見計らって、ラプンツェルを救いに行きました。彼女は長く編んだ金色の髪を窓の外へ垂らし、王子はそれをつかんで搭に登り、ついに彼女と出会いました。ラプンツェルは王子の顔を見つめているうちに、ふと王子の瞳に映った自分の美しい顔を見ました。そこで初めて、自分の本当の姿を知り、十八年もの間閉じ込められていた搭を出て、王子と共に幸せに暮らしたと言われています。
この物語は、誰もが自分の美しさを見つけるために、他の人のまなざしを必要としていることを教えてくれます。条件なく、あるがままの私を受け入れ、愛してくれる人を通してこそ、私はどれほど大切な存在かを知り、それにふさわしく成長していくのです。
この世で、私たちをあるがままに受け入れ、完全に愛してくださる方は、ただイエスだけです。ラプンツェルが王子の瞳の中で自分を見たように、イエスと私たちの目が合う時、私たちはそのまなざしの中に、自分自身の美しさを見い出すのです。
その後、水から上がられたイエスに、父である神は聖霊を送り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げられました(マルコ1:11)。そして主は、洗礼の秘跡を通して私たちに聖霊を与え、私たちを神に愛される子供としての尊厳、すなわち大切にされる存在へと引き上げてくださいました。私たちはその聖霊の力によって、神の愛を体験し、神を親しい「アッバ、父よ」と呼び、罪と闇の束縛から解放され、他者を愛する力を与えられています。また、洗礼によって、水の中から外へ出るように、死から復活へと移され、永遠のいのちをいただくと、私たちは固く信じています。
今日一日、主の洗礼を記念し、洗礼を受けた私たち一人一人が、聖霊によって神を親しい「アッバ、父父よ」と呼ぶ子どもであることを心に刻み、その聖霊の力によって、神と自分、そして隣人を愛することができますように祈りましょう。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父






