カトリック上福岡教会

説教

年間第2主日(A年 2026/1/18)

ヨハネ1:29−34

今日の福音で、洗礼者ヨハネは、自分のほうへ来られるイエスを見て、こう証言します。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」イエスが「子羊」と呼ばれる意味を知るためには、聖書の中で子羊がどのように語られているかを見る必要があります。

旧約聖書の出エジプト記では、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、一つ一つの家で子羊を屠り、その血を戸口の柱に塗るように命じられました。そうすれば、死の使いがその家を「過ぎ越す(パスカ)」からです。子羊の血が塗られていない家では、長男と家畜の初子が死ぬ、と主は言われました。

神の御言葉のとおり、その夜、死の使いは多くの家の長男と初子を打ちましたが、子羊の血が塗られた家は通り過ぎました。この出来事によって、頑なだったファラオはついにイスラエルの民を解放しました。それ以来、イスラエルの民はこの出来事を記念してパスカの祭りを祝い、神殿で子羊をささげ、いけにえとして献げました。このように、子羊は長子たちの代わりに死んだ、あがないのいけにえだったのです。

また、「子羊」という言葉はイザヤ書にも出てきます。ユダ王国が滅び、民がバビロンへ捕囚として連れて行かれた時、預言者イザヤは、その苦しみの意味を「苦難を受ける主の僕」の姿の中に見ました。そして、やがて来る救い主メシアを、苦しみを負う子羊のような方として語りました。「屠り場に引かれて行く子羊のように。」(イザヤ53:7)これらを合わせて考えると、「世の罪を取り除く神の子羊」とは、世の罪を取り除くために、ご自分を身代わりのいけにえとしてささげられる救い主メシアのことだと分かります。そして、この言葉は、イエスの十字架の犠牲によって成し遂げられました。

今もミサの中で、司祭はご聖体を高く掲げて、「見よ、神の子羊」と唱えます。このミサの中では、私たちの目には見えませんが、イエスの十字架の犠牲が今も生きて現されています。それは、私たちの罪を取り除き、罪と死から救うためです。イエスの犠牲と死には、私たちへの限りない愛が込められています。

2008年5月12日、中国の四川省で大きな地震が起こりました。翌日、倒れた家のがれきの中から、一人の女性の遺体が見つかりました。彼女はひざまずくように伏せた姿勢で、崩れた家を体で支えながら、背骨の損傷と大量出血で亡くなっていました。ところが、その胸の中には、赤ちゃんが奇跡的に生きていました。救助隊と医師たちは急いで赤ちゃんを病院へ運びましたが、そのおんぶ布の中から携帯電話が見つかりました。画面には、こう書かれていました。「愛するわが子よ。もし生き残ったなら、忘れないで。お母さんはあなたを愛していたということを。」この言葉を読んだ救助隊員と医師たちは、涙を流しました。自分の命を犠牲にして子どもを守った母親の愛に、皆が深く心を打たれました。地震ですべてが壊されても、一人の母の愛は壊されなかったのです。

私たちが記念する「神の子羊」としてのイエスの愛も、この母親の愛と同じです。イエスは、私たちを死へ導く罪を取り除くために、十字架で血を流し、命をささげられました。それは、私たちを深く愛しておられるからであり、私たちを永遠に生かせたいと願っておられるからです。

私たちはミサのたびに、私たちのために血を流されたイエスの体、すなわちご聖体をいただきます。もし私たちが、そのご聖体を通して、神の子羊であるイエスの犠牲と愛を心か受け入れるなら、私たちの生き方は変わるでしょう。

先の話で助かった子どもは、成長してから、自分を生かすために命を捧げた母の大きな犠牲と愛を知り、その愛を無駄にせず、価値のある人生を歩もうとするでしょう。

同じように私たちも、ミサの中でいつも私たちのために血を流される神の子羊イエスの犠牲と愛が無駄にならないよう、主が望まれる生き方を選んだらいいと思います。自分の過ちや裏切りをも忍耐して待ってくださった主の愛に気づき、悔い改めの涙を流しながら、さらに神へ近づく成熟した信者として生きていくのです。そして私たちも、イエスの犠牲と愛にならい、家族、隣人、友人、職場の仲間などのために、粘り強く、誠実に仕え、奉仕し、自分の愛を行動で示すことができたらと思います。

この一週間、私たちを罪と死から救い、生かすためにご自分をささげられたイエスの愛を受け入れ、私たちもまたイエスに倣って、ほかの人のために生き、神の救いへ一歩近づいていくことができますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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