説教
灰の水曜日(2026/2/18)
マタイ6:1−6、16−18
今日、私たちは四旬節の初日(最初の日)である灰の水曜日のミサをささげています。この日、教会はミサの中で悔い改めのしるしとして、灰を頭に受ける式を行います。この灰は、去年の主の受難の主日に祝福された枝を集めて焼いたものです。司祭はこの灰を祝福し、信者の頭にかけます。そして次の言葉を宣べます。「あなたは塵であり、塵に帰るのだ」(創世記3:19)、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。この御言葉と灰を受ける行為を通して、私たちは自分がどこへ帰る存在なのかを思い起こします。
人間は優れた知能とひらめきによって科学技術を発展させ、文化や芸術を生み出してきました。また、人前で自分をよく見せようとして値段の高い(高価な)物を身につけ、体を鍛え、競争の中で懸命に生きています。しかし、病み、老い、やがて死んでいく姿を見る時、人間がいかに弱く、はかない存在であるかを思い知らされます。灰の式は、私たちがどれほど大きなことを成し遂げても、最後には体も塵に帰る存在であることを思い出させてくれるのです。
しかし、人間が一握りの灰にすぎないと強調するのは、悲観的に生きなさいという意味ではありません。むしろ、自分の誤った歩みを正し、神の似姿として与えられた聖さと美しさを十分に生きるためです。だからこそ、私たちは財産、名誉、人気、権力、自尊心、一時的な楽しみではなく、神を人生の中心に置いて生きようと決意します。
そのために、私たちは神を中心にして考えと心を変えなければなりません。心が変われば、行いも自然に変わります。第一朗読で預言者ヨエルは、「衣ではなく、心を引き裂け」(ヨエル2:13)と呼びかけ、心から主に立ち帰るように勧めます。外側のしるしよりも、心から神に向き直ることが大切だという教えです。神は人の見た目ではなく、その心の思いをご覧になります。だからこそ福音で主イエスは、人に見せるためではなく、隠れておられる父の前で施し、祈り、断食をしなさいと教えられるのです。
しかし、私たちの心を本当に変えるのは、自分の努力だけではありません。何よりも、私たちのために命を差し出してくださった主の愛の中にとどまり、その愛を体験することが必要です。第二朗読でパウロが語るように、「神と和解させていただきなさい。罪と何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント5:21)。この父の愛を知る時、私たちは初めて自分の罪を心から悔い改めることができます。
それは、わがままに生きようとして家を飛び出した子が、やがて親のもとに帰る姿に似ています。自分を必死に探し続ける親の心を知り、自分の過ちが親を深く傷つけたことに気づき、それでもなお無条件に愛してくれることを知った時、子は涙を流して帰ります。そして親の愛に応えて生きようとします。同じように、信者も神の愛と恵みを無駄にしないよう努める中で、人生を新たにしていくのです。
この灰の水曜日から、恵みの四旬節が始まります。やがて塵に帰る私たちのただ一度の人生を、美しく、意味ある、聖なるものとするために、汚れた心を清め、善い心で歩んでいきましょう。そして、御子を贖いのいけにえとして与えてくださった神の愛を空しくすることなく、神を自分の中心に迎え、心を尽くして従うことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父






