説教
年間第5主日(A年 2026/2/8)
マタイ5:13−16
今日の福音で、主イエスは、私たちキリスト者が「地の塩」「世の光」であると言われます。
「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」とは、どういう意味でしょうか。
まず塩を考えてみましょう。昔、塩はお金に比べられるほど、とても貴重で大事なものでした。ローマの兵士たちは、給料をお金の代わりに塩で受け取ることもありました。給料を英語で salary と言いますが、その語源であるラテン語の salarium は、「塩のお金」という意味です。また、塩は料理に味をつけ、食べ物が腐るのを防ぐ大切な役割を持っています。ですから、私たちが「地の塩」であるという主イエスの言葉は、私たちが今のままで尊く、価値のある存在であり、世の中を生き生きとさせ、世の腐敗を防ぐことのできる存在だ、という意味だと言えるでしょう。
次に光を見てみましょう。今は夜でもスイッチ一つで簡単に電気をつけることができますが、電気のなかった昔は、暗闇を照らすために灯りが欠かせませんでした。人々はその灯りを頼りに、暗い夜道でも歩くことができたのです。また、光は希望を象徴します。1月1日の朝になると、新年の昇る太陽を見ようと多くの人が集まり、過去を振り返りつつ、新しい年への希望を思い描きます。ですから、「あなたがたは世の光である」という主イエスの言葉は、私たちが光のように、闇の中にいる人々に助けと希望を与え、その人たちを明るく照らす存在である、ということなのです。
ここで注目したいのは、主イエスが「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」と言われたのではなく、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と言われたことです。将来そうなれ、という意味ではなく、「あなたがたは今すでにそういう存在なのだ」と言われたのです。つまり私たちは、もともと光と塩として生きる可能性と力を与えられている存在なのです。
しかし、もし塩が味を失えば、その価値は下がってしまいます。また、灯りを升の下に置けば、照らす理由も、その存在の意味もなくなってしまいます。同じように、私たちが光と塩としての役割を果たさなければ、私たちの人生は空しく、意味のないものになってしまうでしょう。反対に、私たちが本来の姿のまま、光と塩として生きるなら、自分の価値を表す、意味のある人生を生きることができるのです。
では、私たちの本来の姿と価値を表す生き方とは、どのような生き方でしょうか。それは、塩のように自分を溶かし、灯りのように自分を燃やす生き方です。塩は溶けてこそ味を出し、灯りは自分を燃やしてこそ明るく照らします。同じように私たちも、他の人を助け、犠牲を払い、献身し、奉仕し、自分の欲を減らして譲り合い、思いやり、分かち合うことで、人々の人生を豊かにし、明るくすることができるのです。
このような光と塩の生き方を示されたのが、私たちの師である主イエスです。主イエスは、ご自分の体である聖体を通して、ご自身を食べ物として私たちに与え、私たちを霊的に生かしてくださいます。司祭が聖体を聖別するとき、こう言います。
「これは、あなたがたのために渡される、わたしの体である。」
人間の体を取られた主イエスが、ご自分の体を私たちのために与えられたのは、私たちの体もまた、本来、隣人のために差し出すために存在しているのだ、ということを示すためです。
また、私たちは主イエスの生き方に従った聖人や模範となる信仰者たちに出会います。彼らの生き方は、私たちにどのような益をもたらすでしょうか。ある実験で、人々にマザー・テレサ修道女の善い行いと献身的な愛を紹介する映像を見せました。すると、実験の対象者たちは、その映像を見るだけで、体の免疫力が高まったのです。塩と光のように生きたテレサの姿を見て、人々の体と心が健康になり、明るくなり、幸せになったのです。同じように、私たちも、主イエスの愛を受け、聖人たちの生き方にならい、実際に他の人を助け、善い行いをするなら、相手の体と心だけでなく、私たち自身の体と心も健康になり、明るくなり、幸せになるでしょう。
ですから私たちも、主イエスの言葉のとおり、人々の人生を豊かにする塩として、人々を明るく照らす光として生きる決意を新たにしましょう。隣人に一度多く微笑み、一度多く親切にし、一度多く声をかけ、一度多く譲り、思いやる、そのような善い行いを重ねていきましょう。そうして、人々が私たちの善い行いを見て、天におられる父を賛美するようになるとよいのです。自分を高めるためではなく、私たちに限りない愛と恵みの光を注いでくださる主の栄光が現され、人々が神を賛美するようになるためです。
この一週間、私たちの言葉と行いによって、他の人に助けと希望を与える、地の塩、世の光として生きていくことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父






