説教
四旬節第2主日(A年 2026/3/1)
マタイ17:1−9
今日の福音は、主イエスの栄光ある姿に変わられた出来事を伝えています。しかし、この出来事は突然起こったものではなく、その前にあった大切な対話と深く結びついています。イエスは弟子たちに「わたしを何者だと言うのか」と問われ、ペトロは「あなたは生ける神の御子、メシアです」と告白しました。しかしその後、イエスがご自分の受難と死、そして復活を予告されると、ペトロはそれを受け入れることができず、イエスを止めようとしました。そこでイエスは、「サタンよ、退け」とまで言い、弟子としてご自分の後に従うよう求められました。そしてはっきりとこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)
この十字架についての言葉の後に、イエスの栄光ある変容が起こりました。弟子たちは、十字架の意味をまだ十分に理解できず、不安と恐れの中にいたのでしょう。イエスの力によって成功や栄光を得られると思っていた弟子たちにとって、「自分を捨て、苦しみの道を歩む主に従え」という言葉は、大きな戸惑いだったはずです。だからこそ、変容は神からの配慮であり、励ましでした。栄光に輝くイエスの姿は、十字架が終わりではなく、その先に必ず栄光があることを示していました。
この真理は、後に使徒パウロの言葉にも表されています。私たちは地上の者ではなく、天の国の市民であり、主イエス・キリストが来られる時、私たちの卑しい体も、その栄光ある体と同じ姿に変えられる、とパウロは語りました。十字架の道は、むなしい苦しみではなく、栄光へと至る道なのです。
変容の場面で、モーセとエリヤが現れたこと、そしてそれを見たペトロの反応も重要です。ペトロは、その素晴らしい光景に心を奪われ、そこにとどまろうとして三つの仮小屋を建てましょうと言いました。しかし、イエスの変容は完成ではなく、復活という出来事への前触れにすぎません。映画の予告編を見ただけで、物語が終わるわけではないように、イエスは山にとどまらず、再び世の中へ降り、十字架の道を歩まれました。
これは私たちの信仰生活にも当てはまります。祈りや黙想、黙想会を通して、私たちは神からの慰めや甘さを味わうことがあります。しかし、それは旅路の途中で力を得るための恵みであって、そこにとどまるためのものではありません。砂漠でオアシスを見つければ休むことができますが、目的地へ向かうためには再び歩き出さなければなりません。私たちも同じように、霊的な慰めに安住するのではなく、日常へ戻って神の御心を生きるよう招かれています。
第一朗読のアブラムの物語も、これと重なります。神はアブラムに、慣れ親しんだ土地や親族、父の家を離れ、約束の地へ行くよう命じられました。そして大きな祝福を約束されました。アブラムはこの御言葉を信じ、今の安定した生活を手放して旅立ちました。
苦しみなしの栄光を求める信仰は、本物ではありません。十字架のない復活を望むことは、神を偶像のように扱うことです。偶像は、いつも楽で甘い結果だけを約束します。しかし、真の神は、私たちに献身と忍耐、自己放棄を求められます。アブラムは手放すことで祝福を受け、パウロは苦難を通して教会の柱となりました。そしてイエスは十字架の死を通して、栄光の復活へ至られました。
四旬節第二週を生きる私たちは、神の御心に従うために何を手放し、何から離れるべきかを祈りの中で聞く必要があります。十字架なくして復活はないことを心に刻み、主が約束される満ちあふれた命と栄光を信じ、日々の生活の中で、自分に託された十字架を背負って主に従う恵みを願いましょう。
カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父






