カトリック上福岡教会

説教

四旬節第4主日(A年 2026/3/15)

ヨハネ9:1−41

今日の福音で、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちは、イエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」当時のユダヤ教では、人間の不幸はすべて本人か両親の罪のために、神が与えた罰だと考えられていました。私たちも、自分が病気になった時や、何か悪いことが起こった時に、「これは神の罰ではないだろうか」「自分が何か悪いことをしたからではないだろうか」と思ってしまうこともあります。しかし、イエスははっきりと答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)そしてイエスは、安息日であったにもかかわらず、生まれつき目の見えない人の目を癒されました。これによってイエスは、神のなさる業とは、人を癒し、救い、生かすことであると教えてくださいます。神は人間の不幸の原因ではありません。神は、私たちの病や苦しみ、困難を引き起こす方ではなく、むしろそれらを悲しみながら見つめ、私たちを癒し、救い、生かそうとされる方なのです。

ある時、イエスは安息日に会堂で手の萎えた人を癒される前に、このように言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)イエスは、神の業、すなわち命を救う善い業を行うために来られ、十字架にかけられて死ぬまで、その業を行われました。

一方、人を裁き、失望させ、苦しみや悲しみを与えることは、私たちの中にある闇、つまり罪の働きです。福音署に出てくるユダヤ人たちはそのようでした。彼らは、生まれつき目の見えなかった人の目が開かれるという驚くべきしるしを見ながら、神の業を行われたイエスを信じませんでした。そればかりか、癒された人まで会堂から追い出してしまいました。彼らは神の御心を理解できず、安息日の規則という形式や、自分たちの考えによって、イエスと癒された人を決めつけ、裁いてしまったのです。その結果、多くの人を苦しめ、彼らの人生を重く、疲れたものにしてしまいました。

イエスに従う私たちもまた、イエスのように神の業を行うよう招かれている者です。主はご自分の業を行うために、私たちをその手と足として選ばれました。第二朗読でパウロが語るように、かつて闇の中にいた私たちは、今や主によって光の中に導かれました。そして、光の子として生きるよう招かれています。いつも目を覚まして、主に喜ばれることが何かを見分け、闇の業に加わることなく、善と正しさと真実という光の実を結ぶよう招かれているのです。

また神は、弱い人を通してご自分の業を表されます。エッサイの末っ子であった少年ダビデをイスラエルの王に選ばれたことも、生まれつき目の見えなかった人を癒し、その人を通して人々に神の業を伝えさせたことも、そのためでした。ですから、私たちは自分が弱く、足りない者だと思って、失望する必要はありません。小さな子どもが差し出した五つのパンと二匹の魚で五千人を養われたように、主は小さな手を通してもご自分の業を行うことがおできになるからです。私たちの小さな善い行いや、小さな分かち合いを通しても、主は大きな業を行ってくださいます。

しかし、私たちが神の業を行うためには、まず自分の心を見つめ直し、闇や欲望、罪、悪い習慣によって汚れた心を清める必要があります。第一朗読で語られているように、主は人と違って見た目ではなく心をご覧になる方です。その主の御言葉に従って、サムエルはダビデに油を注ぎました。その時から主の霊がダビデに臨み、彼は神の御心に従ってイスラエルの民を治めました。私たちもまた、自分の心を振り返り、清めるならば、主は聖霊を与えてくださり、私たちが神の善い業を行うことができるよう助けてくださるでしょう。

もし私たちがこれまで、人を失望させたり、苦しみや悲しみを与えるような罪の生活をしてきたのなら、今こそ心を清め、悔い改めることができたらと思います。そのようにして、今のような困難な状況の中でも、聖霊の助けと恵みによって、周りの人を慰め、力と勇気を与え、人を生かし救う神の業を行っていくことができますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父

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