カトリック上福岡教会

教会報から

浦上四番崩れ〜幼いころに聞いた旅の話〜第四部(完結編)

Bさん(男性)

岩倉外交使節団

欧米各国の公使や領事らの必死の中止要請にもかかわらず、明治元年7月から明治3年1月までの間に長崎浦上郷の全ての住人、老若男女3,394名が西日本の22か所に流されていきました。

彼らが七代にわたって密かに信じ、伝え続けてきた教えを捨てるようにと責められている最中の明治4年11月に、伊万里県(現佐賀・長崎県)の高島、伊王島、神の島、出津、黒崎など主に離島の切支丹67名が捕えられて投獄されました。

この新たな切支丹投獄から4日後の明治4年11月12日、安政の不平等条約を改定すべく、岩倉具視を団長とする使節団が横浜を出帆してアメリカに向かいました。

右大臣岩倉具視を正使に、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら48名の全権団に、6歳の津田梅子(のち津田塾女子大学創始者)ら5名の女子留学生が同行していました。

一行がまだ太平洋上にあった12月に長崎で発行された外国人向けの外字新聞は、伊万里切支丹事件を取り上げ 「先年の浦上切支丹事件のように今また切支丹信徒が捕縛されたについて、文明国の人々は同情と悲嘆を禁じ得ない。日本の使節団がすでに出帆したが、各盟約国に到着の上は、苦い抗議を込めた飾り言葉で挨拶されるだろう」と皮肉に伝えています。

これらの事情を知らずに岩倉全権団は明治5年2月4日にソルトレーク市に上陸し、ここでアメリカの新聞を見て初めて伊万里事件を知り、ワシントンに向かう列車内でアメリカ公使ロングから公式に注意を促がされたのです。このように事件は重大問題化したので、伊万里県はあわてて全員を不改心のまま釈放しました。

この伊万里事件によって浦上切支丹流罪に対する欧米の世論は一段と硬化し、切支丹の釈放が要請されるようになります。

高札撤去

明治5年3月3日、アメリカ大統領グラントは大使団接見のとき、日本が切支丹禁制を解くことの必要を勧告しました。

しかし日本側は、この宗教問題を和親条約と切り離して国内問題として処理しようとしました。切支丹は国禁の宗教であって、その信徒は「犯法の徒」であり、当然重刑に処せられるべきという思想は、260年の歴史に培われた頑強さを持っていたのです。

一方アメリカ側は、信教の自由を根本原則とし、これに弾圧を加えることは文明国家のとるべき行為でなく、対等な条約を結ぶ近代国家とは認め難いと考えたようです。

使節団はアメリカの後、イギリス、フランス、ベルギーと欧州各国を歴訪しますが、各国の大臣・学者はもちろん、一般市民からも浦上切支丹弾圧の非を指摘され、その見解にも変化が起こってきました。

明治6年1月、伊藤博文はパリから大隈重信らに報告書を送り、「各国政府の意向は、キリスト教を忌み憎むという東洋旧来の風習を懸念する心が抜けないようである。我が国が旧習に固着して政治までも不公平の処置になることを恐れている様子がうかがわれる(略)宗教のことはただ黙許して、法律上で区別しないのを根本としたがよいと思う」と述べています。

こうして明治政府も切支丹邪教政策を修正せざるを得なくなり、明治6(1873)年2月24日、ついに切支丹禁制の高札を撤去し、慶長19(1614)年に始まった切支丹禁制は260年ぶりにその効力を失ったのです。

高札の撤去は外圧に動かされ、条約改正を達成するという打算のうえに実現したものです。しかし、実質的には信教の自由の黙認となり、日本の思想的発展を推し進めて政治の近代性を高めることになったといえます。

そして明治22年の大日本帝国憲法に信教の自由が規定されるのですが、のちに司法官で歴史学者の尾佐竹 猛(おさたけ たけき)は、それは浦上切支丹の流罪と因縁があると述べています。

帰還と貧窮

高札の撤去によって浦上切支丹はついに釈放帰村することになりました。

早く行った人は6年、遅い人でも4年という長い間、遠い異郷の地で飢えと渇き、命にかかわる拷問と執拗な説諭に耐えて信仰を守り通したのです。

3,394人が浦上を追われ1,770人が帰ってきました。 この間に尊い殉教者を613人も出し、不幸にして1,011人は信仰を捨てました。しかし帰郷後にはその大部分は再び元の信仰に帰り、償いを果たしています。

切支丹たちは613名の尊い命の犠牲の上に、財産よりも貴重な精神的価値を幕府からも明治政府からも守り抜いたことに、大きな喜びを感じていたに違いありません。

しかし現実は過酷でした。家はあっても壁は落ち、瓦ははがされ、建具も畳も家財道具も盗難にあって、茶碗一つも残されていませんでした。

旅から帰るときに支給されたわずかの金で、虫食いだらけの安いカンコロ(切干し芋)と豆や大根の種を買い、鎌も鍬(くわ)もないので手で雑草を取り、陶器のかけらで穴を掘って種をまき、鍋も釜もないのでカンコロをそのまま水に溶かし浮いてきた虫も一緒に食べ、着替えも布団もないのでそのままゴロッと寝る毎日でした。

しかし、彼らは辛さや苦みを少しも感じませんでした。今では自由に大声でオラショ(祈り)を唱えることができます。日曜日には2里も3里も歩いて大浦天主堂のミサにあずかりました。

ド・ロ神父と十字会

こうして1年が過ぎてようやくわずかな実りが収穫される頃、信徒たちにまた災いが降りかかりました。

明治7年、九州北部一帯に赤痢が流行します。旅から帰ってまだ一年、体は弱っており衣食住のすべては最悪でした。村人たちはこの疫病に手の施しようがありませんでした。浦上だけで210人の患者が出ました。

そこに現れたのが、フランス貴族出身でパリ外国宣教会のド・ロ神父です。村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝一里あまりの道を薬箱を下げて浦上に通い、病人の診療投薬に従事しながら予防措置を教えて回りました。

8月には台風が襲来し長崎は大被害を受けました。急造の小屋は総倒れとなり、一年間辛苦の農作物の収穫は皆無となって、赤痢に対する条件はますます悪くなりました。それでもこの疫病を210人の患者で食い止め、死者87人にとどめたのはド・ロ神父のおかげでした。

そしてド・ロ神父の活動を助けた篤志看護婦たちの献身を忘れてはなりません。

ド・ロ神父が救護活動を始めたのを見て、直ちにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を買って出たのは岩永マキでした。

マキは愛の人でした。赤痢に苦しむ人々を座視するに忍びなかったのです。

マキが動いたのを見て、守山甚三郎の姉の守山マツと片岡ワイ、深堀ワサが立ち上がります。みな旅の辛酸をなめてきた信仰厚い若き乙女たちでした。

マキらは家に帰れば家族に赤痢を伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにし、木仙右衛門が自分の小屋を提供しました。そしてこの小屋は「女部屋」と呼ばれました。

度重なる災いによって、長崎地方では多くの孤児を出しました。女部屋でマキたちはやがて新しい天職“孤児養育”に生涯を捧げる決意を固めることになります。

仙右衛門夫妻はついに自宅の土地建物一切をマキらに無償で譲って小さな小屋に移りました。彼女らはここを修道院とし、別に本原郷の家を買い取って孤児院を開きました。

ド・ロ神父が精神的にも経済的にも援助の手を差し伸べ、孤児院の経済的基盤を固めるため、私財を投じて田畑を買い与えました。

このような困窮と激しい労働の中でも、最初の合宿以来マキたちが精神的修練を怠らなかったことは感嘆すべきことです。

ド・ロ神父は若い乙女たちの共同生活を敬虔なものにし、その奉仕の精神的価値を高めるために、祈りと宗教の勉強、黙想の時間を定め、暇を見ては指導を与えました。

そしてそれは初代浦上主任司祭ポアリエ神父に引き継がれ、マキらの共同体は明治10年に準修道会となり「十字会」と名付けられました。現在長崎県内に36の修道院を持つ「お告げのマリア修道会」の前身です。

今、私たちが伝える信仰とは

今年(2014年)もまた5月3日に、島根県津和野町で恒例の「乙女峠まつり」が行われ、諏訪榮治郎司教司式の野外ミサには全国から1,400人が集って、浦上四番崩れの過酷な迫害と苦労をしのび、先達の信仰の強さを思って祈りました。

一般的にはほとんど知られていない、明治維新前後の遠い九州での出来事を今こうして皆さまにご紹介できるのも、それが祖父母から父母へと語り伝えられ、やがて私にまで伝わったからです。

幼いころに家族から聞いた話でも、聞いた本人が興味も持たずに忘れてしまえば、それきりになってしまいます。今年津和野に集まった方々も、何らかの形で「旅」の話を知り、信仰の先達を偲んでその遺徳を讃える気持ちをもって集われたと思います。

わたしはたまたま当事者の末裔だったのでたびたび話を聞かされ、興味を持ってより詳しく知ろうとし、自分の知ったことを一人でも多くの方に知って欲しいという思いで、この拙い文をしたためました。

長崎浦上の切支丹信徒たちは決して特別な人たちではありませんでした。先祖から伝わった信仰を自分の心の糧とし、貧しいにもかかわらず現世の富や利益よりも「己の魂の救い」を一番大切なものとして、子や孫に懸命に伝え残そうとした、愚直なまでに純粋な人たちでした。

しかし、彼らも自分たちの信仰を公にした後、260年の間一人の司祭も修道者もなく、口伝えで密かに伝えてきたその祈りや信仰内容が教理から外れることなく正しいものなのかを確認するために、命の危険を冒して毎晩のように大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父たちに改めて教えを乞うたのです。

彼らの多くが、どんなに辛い責め苦に遭ってもその信仰を捨てなかったのは、今この世での苦しみの後には、必ず天国での「魂の救い」が待っているという信念を持ち、そのことを子や孫に伝えることこそが自分の命よりも大切なことと確信していたからです。

振り返って、信仰の自由が保障され、生活の面でも比較にならないほど豊かになった現代で、私たちは命を懸けても次の世代に伝え残すものを持てているでしょうか。

伝え残すべきものは必ずあるはずなのに、そのものから目をそらし、目先の安楽ばかりを追い求めてはいないでしょうか。

「人もし全世界をもうくとも己が魂を失わば何の益かあらん(マタイ16:26)」

亡き祖母や母はよくこう言って私たちを叱りました。「学校の成績が良くても贅沢な暮しができても、霊魂が永遠に地獄の火に焼かれるならどうする。なぜ今のことばかりを気に病んで、霊魂が永遠に苦しむ地獄のことを考えないのか」そして「1時間のミサをさぼってする試験勉強と、霊魂の救いとどっちが大事か」。

今思い返せば、ずいぶん無茶な言い方だと思いますが、霊魂(魂、アニマ)の救いは全てのものにまさって大切なものだ、と物心ついたころから叩き込まれました。

このように育ったからといって、誰もが信仰篤い聖人になるわけでもなく、この世を去った後に「天国」が約束されているという確証もありません。それでも、自分に伝えられたこの「魂の救い」は、かけがえのない「良い知らせ」として次の世代に確実に伝えていかなければならないのだと、今は確信をもっています。

私たちが歴史に埋もれた「旅」のことをこれだけ知ることができるのも、高木仙右衛門や守山甚三郎らが命にかかわるほどの責め苦を受けながらも「覚書」をしたため、後の世代にまでしっかりと伝えたからであり、無学な貧しい農家の娘であった岩永マキや守山マツらが、俗世から離れて伝染病者や孤児のために敬虔な共同生活を送ることができたのも、すべて己と己の隣人の魂の救いを求めた結果であったでしょう。

この信仰を自分だけのものにしないで、せめて自分の子や孫の世代にしっかりと伝える努力をしていきたいものです。

祈りを教え教理を伝えることを聖職者や教会の組織だけに任せるのでなく、自分でこそ確信を持って伝えていくことができるように、絶えず祈り聖霊の助けを求め続けるべきだと、いま切に思います。

命をかけて信仰を守り伝えてくださった、浦上をはじめ日本中の切支丹たちに報いるためにも、この信仰をしっかりと次の世代へつなぐ努力をすべきではないでしょうか。

皆さまにはまだお伝えしたい話はいくつもありますが、この辺で筆を置くことにいたします。拙い文章を耐えてお読みくださった皆さまと、この貴重な場を与えてくださった広報部の方々には心から感謝致します。(完)

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参考資料

浦川和三郎 『浦上切支丹史』 国書刊行会
片岡弥吉 『長崎の殉教者』 角川選書
片岡弥吉 『日本キリシタン殉教史』 時事通信社
岡田章雄 『キリシタン風土記』 毎日新聞社
永井隆 『乙女峠』 サンパウロ
『浦上小教区変革史』 浦上カトリック教会
『カトリック新聞』(2014年5月25日号) カトリック新聞社

2014被昇天号(2014年8月15日発行)より転載

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